2015年7月1日水曜日

関係ないモノどうし、あるいはお互いに孤独のうち

10+1 web siteの、「ストリートの終わりと始まり──空間論的転回と思弁的転回の間で」(http://10plus1.jp/monthly/2015/04/index01.php)がすごく面白かった。文章の最後のほう、以下引用する箇所では、Stomachache.のことを考えたり。

モノは人間から引きこもっており、モノどうしの関係からも引いている。

ストリートは空間であって、モノではない。しかし、人々だけではなく、無数のモノが住まっている場所siteである。そもそも空間spaceとは、わたしたちが認知、感覚できるモノ(sensual things)と、このモノにひそんでいる過剰な何か、まだわたしたちに接近することのできない、モノのなかのリアルなモノ(real things)との間の亀裂やずれのことを指すのではないだろうか? たしかにストリートは対象のかたち、並置の形式として経験されるけれど、つねにそこには汲みつくすことのできない何かが余剰としてひそんでいる。スペクタクル的な建造環境は文字どおり剰余価値の苗床でもあるが、そこにちりばめられたモノそのものに隠された広がりや豊かさ、あるいは感覚や認知の枠組みにおける欠如(絶対に十全にアクセスできない何かがあるということ)は、資本や数字に換算、還元できる要素以上/以下の、根元的なモノの次元の消息を伝えている。 


どんな街路も見えない網の目をひそませている。さしあたり、人はそれをネットワークと呼ぶだろう。これは情報メディアのそれだけではなく、人間以外の動植物や鉱物、果ては微生物、そしてもちろん人工的な建造物などをそれぞれエージェントや行為体とするネットワークにほかならない。ある場所にこだわり、ある空間を占拠すること、領土化することは、一方である網の目を浮かび上がらせるけれど、同時に別の網の目を見えない状態にとどめておくこともする。あるモノはそれが機能するなわばり(領土)でははっきり目に見えることがなく、逆に脱領土化され、なわばりから引きはがされ、いわば強制排除されることによってはじめて触知できるようになるかもしれない。ストリートではそういうわけのわからない出会いがつねに起こっている。
対象やモノに認知的に汲みつくしえない何かがあるとすれば、本来は互いに無関係なモノどうしの間に一時的なはかないつながりを紡ぐ都市の身ぶり、街/ストリートの息吹のような何かがある。それを穿ち、辿りながら、ときに可視化する試み、あるいはストリートの裏にあるモノの動きの見えなさを何とか迂回してでも浮き彫りにするような試みが街のなかには生起する。ネットワークは資本や権力によって課せられるimposedだけではなくて、街のなかでは無数の編みこみが重合superposedされているのである。そこではストリートの知性はモノへの拘泥によって、自らが帰属し、漂流する都市のなかのはかないつながりを分節化しようとする。互いに全く基本的に関係ないモノどうし、あるいはお互いに孤独のうちにあり、どちらかといえば背きあっている者(モノ)どうしが、あるかりそめの一時的な試みにおいて出会う、関係しあうこと、これは存在論的な課題であり、同時に投資=投機的speculativeなシステムのなかでしなやかに、したたかに生きのびる思弁speculationの営みになっているかもしれない。

ストリートの文化政治を考えることは、ストリート系ファッションの盛衰を語ることでも、パンクやDiYっぽい生き方を薦めることでもないし、金持ちやセレブの価値観に対抗して貧乏人の文化を祝福することでもない。もっと端的にすべきこと、モノに即してできることが、物書きや知識人にはあるはずだ。たとえ、それが表向き、ストリートからひきこもる身ぶりにつながったとしても......。ストリートの政治から戦闘的なカラ元気や行動様式を抜いていくこと、ミリタントな姿勢を放棄することによって得られる、しなやかな強さがあるのではないか?”