2015年9月24日木曜日


ブニュエルの「この庭に死す」、すごく面白かった。リマスターで画が綺麗なのもあるけど、かっこいいカットが多い。ことあるごとに衝突する面々が、ジャングルを進むにつれてどんどんトライブ感が出てくるところや、石をこちらに向かって(カメラのほうに向かって)投げてくるシーンも良かった。

2015年9月9日水曜日

過剰な「すいません」を浴びて疲れる。
「すいません」で満ちている状態が普通になっていないか。それを普通と、何とも思っていない人の多さを恐ろしいと思う。常にそんな状態だからこそ、ひと度弱みを見つけると一斉に攻撃をし、自分が上に立ってやろうとするのでないか、と最近考えた。

耐震偽装事件の姉歯さんのことも思い出す。「姉歯」という名前のキャッチーさも相まって、テレビでの騒ぎ方、あるいはネタにされ方は非情だったと思う。根っこのもっと悪い部分は追求されず、枝の先の方ばかり攻撃しているように見えた。今の五輪エンブレムデザインの件も同じように感じる。その先に人の体が宙に放り出され、落下し、車の屋根を突き破って亡くなってしまうようなことが起こりうる。悲しい事件で忘れられず、時々思い出す。

2015年8月25日火曜日

橋の上は風が強い

台風で強風の中、写真を撮りに行った。風に煽られて横になっている木や草なんかを撮ってみたいと思う。歩いている人はほとんどいないし、曇っていて薄暗く雰囲気がある。道端に木の枝がばらばらになって落ちていて、湿った草木の香りがする。つぶれたスーパーの駐車場に倒れた街灯が置かれていたり、中学校前のバス停の印が倒れていたりした。河口近くの川まで来ると潮の香りがしてくる。体が濡れ、雨が降ってきたかな、と思うけど、強い風で細かく砕けた波のしぶきがそこら中に充満しているような感じ。潮でべとべとする。周りがどんどん煙ってきて、遮るものがないので風が強く当たり、橋の上ではよろめくぐらいだった。台風をレポートする現場の人を思い浮かべる。橋を渡りきって川沿いを歩く。河川敷にはゴミが落ちているものだけど、いつもは落ちていないような大きめのゴミが飛んできていて面白い。ゴミのコンポジション、とでもいうような並びはいつも気になって見る。以前から入ってみたいと思っていた、建物を取り壊し中の場所に侵入してみたけど、とてもわくわくした。建物が縦に切り取られたようになっていたり、つぶれてぐしゃっとしたかたちになっていたり。大きめの水たまりもいい感じ。フィルムが残り少なく、あまりたくさん撮れなくて残念だった。ただカメラを構えても風でぐらぐら動いてしまうし、暗いこともあってブレていそう(強制フラッシュを使ってみてもいいかな、と帰りに思った)。帰り道、犬の散歩をしているおばさんがいて、なんか良かった。犬も強い風の中で野生の勘を取り戻す、と考えるも、とことこ歩く小型犬にその様子はない。大きめの鳥の羽根(多分トンビの羽根)を拾って帰宅。取り壊し中の宿舎にはまた行きたいと思う。




2015年8月14日金曜日

畠山:自分一人でモヤモヤと考えを巡らしているだけじゃ不十分で、気持ちを文章に書いてみたり、人と話してみたりすることにはポジティブな部分がありますよね。最近はSNSなんかで大量の情報が本当にスピーディーに行き交っていますけど、ゆっくり喋ってみることで生まれる言葉や意味が絶対にあるんですよ。そうすることで窮屈な概念と概念の間に少し隙間が生じてきて、空気が流れ始める。そうやって頭の熱が少し取れるんです。

畠山直哉のゆっくり考えるススメ「写真家は過去と付き合う仕事」 http://www.cinra.net/interview/201508-hatakeyamanaoya




落ちている 鳥の羽根拾う いつからか 髪を撫でるよう 水の中

人目を避け 濡らしたティッシュで 膝を拭う
地面も植物もカチカチに凍っている 階段を降りる

20円の 端材を使って 箱作る

セーターの 穴に出入りするリスの 集める椎の実 裾からこぼれる

盆休み フィルムの現像 もう少し先

2015年8月8日土曜日

Bas Jan Ader, Selected Works


Fall 1 (Los Angeles 1970)
Fall II (Amsterdam 1970)
I'm Too Sad To Tell You (1971)
Broken Fall (Geometric) [West Kapelle - Holland]
Broken Fall (Organic) [Amsterdamse Bos - Holland]
Nightfall

Bas Jan Aderの「Broken Fall (Organic)」、木の枝にぶらさがり川へ落ちる映像作品。

2015年8月6日木曜日

8/6

妹、甥、姪、叔母、従姉妹で川遊びに行った。木々が茂っていて涼しく、水は冷たく気持ち良い。木登りをしていたら、ビーサンの鼻緒部分が取れ、バランスを崩し川へ落下。大きなケガはなかったけど、衰えを感じる。足を踏み外した瞬間、「落ちるのは恥ずかしい、回避したい」ということと「肩にかけている妹のカメラを濡らさないようにしないと」ということを強く思い、何とかしようとして何ともならなかったんだけど、その一瞬のうちに「何とかしようと思うこと」、それが普段とは違う速さで体を巡る感じが面白いし、懐かしかった。子供の頃のほうがこういったことをたくさん感覚していた気がする。それに合わせて体がしっかりと反応すると良いんだけど…でも木から落ちて死ぬのもまぬけでいいかもな、とも思う。予備のフィルムは持っていったのに、カメラ自体を忘れたので写真は無し。

今年も出身校が甲子園に出場しているので応援する。楽しみだな。

庭で見かけたハグロトンボ、綺麗だった。黒い羽、緑の体。ひらひらと優雅に飛ぶ姿は、トンボよりも蝶に近い。

2015年7月1日水曜日

関係ないモノどうし、あるいはお互いに孤独のうち

10+1 web siteの、「ストリートの終わりと始まり──空間論的転回と思弁的転回の間で」(http://10plus1.jp/monthly/2015/04/index01.php)がすごく面白かった。文章の最後のほう、以下引用する箇所では、Stomachache.のことを考えたり。

モノは人間から引きこもっており、モノどうしの関係からも引いている。

ストリートは空間であって、モノではない。しかし、人々だけではなく、無数のモノが住まっている場所siteである。そもそも空間spaceとは、わたしたちが認知、感覚できるモノ(sensual things)と、このモノにひそんでいる過剰な何か、まだわたしたちに接近することのできない、モノのなかのリアルなモノ(real things)との間の亀裂やずれのことを指すのではないだろうか? たしかにストリートは対象のかたち、並置の形式として経験されるけれど、つねにそこには汲みつくすことのできない何かが余剰としてひそんでいる。スペクタクル的な建造環境は文字どおり剰余価値の苗床でもあるが、そこにちりばめられたモノそのものに隠された広がりや豊かさ、あるいは感覚や認知の枠組みにおける欠如(絶対に十全にアクセスできない何かがあるということ)は、資本や数字に換算、還元できる要素以上/以下の、根元的なモノの次元の消息を伝えている。 


どんな街路も見えない網の目をひそませている。さしあたり、人はそれをネットワークと呼ぶだろう。これは情報メディアのそれだけではなく、人間以外の動植物や鉱物、果ては微生物、そしてもちろん人工的な建造物などをそれぞれエージェントや行為体とするネットワークにほかならない。ある場所にこだわり、ある空間を占拠すること、領土化することは、一方である網の目を浮かび上がらせるけれど、同時に別の網の目を見えない状態にとどめておくこともする。あるモノはそれが機能するなわばり(領土)でははっきり目に見えることがなく、逆に脱領土化され、なわばりから引きはがされ、いわば強制排除されることによってはじめて触知できるようになるかもしれない。ストリートではそういうわけのわからない出会いがつねに起こっている。
対象やモノに認知的に汲みつくしえない何かがあるとすれば、本来は互いに無関係なモノどうしの間に一時的なはかないつながりを紡ぐ都市の身ぶり、街/ストリートの息吹のような何かがある。それを穿ち、辿りながら、ときに可視化する試み、あるいはストリートの裏にあるモノの動きの見えなさを何とか迂回してでも浮き彫りにするような試みが街のなかには生起する。ネットワークは資本や権力によって課せられるimposedだけではなくて、街のなかでは無数の編みこみが重合superposedされているのである。そこではストリートの知性はモノへの拘泥によって、自らが帰属し、漂流する都市のなかのはかないつながりを分節化しようとする。互いに全く基本的に関係ないモノどうし、あるいはお互いに孤独のうちにあり、どちらかといえば背きあっている者(モノ)どうしが、あるかりそめの一時的な試みにおいて出会う、関係しあうこと、これは存在論的な課題であり、同時に投資=投機的speculativeなシステムのなかでしなやかに、したたかに生きのびる思弁speculationの営みになっているかもしれない。

ストリートの文化政治を考えることは、ストリート系ファッションの盛衰を語ることでも、パンクやDiYっぽい生き方を薦めることでもないし、金持ちやセレブの価値観に対抗して貧乏人の文化を祝福することでもない。もっと端的にすべきこと、モノに即してできることが、物書きや知識人にはあるはずだ。たとえ、それが表向き、ストリートからひきこもる身ぶりにつながったとしても......。ストリートの政治から戦闘的なカラ元気や行動様式を抜いていくこと、ミリタントな姿勢を放棄することによって得られる、しなやかな強さがあるのではないか?”







2015年6月12日金曜日

雑草の生い出づように咳をする

2015年6月7日日曜日

黄色

頼んでいた写真のプリントが届く。四切、43枚。全体的に色が黄色ぽく、なぜ色見本を付けなかったのか、とすごく後悔している…大金が無駄になったのではなかろうか。がっかりしている。終わった。

ポーラ美術館で見たセザンヌ展、すごく良かった。国立西洋美術館が少し前に収蔵したも展示されていて、それが一番好みだった。見ていてドキドキする。ゴッホの「草むら」という、何でもない草だけを描いた絵も良かった。
昔のちびまる子ちゃん、ドリフが面白く、心に残る。あと、ミュージックステーションに出ていたチャットモンチーがかっこよかった。本気度高い。