2015年12月8日火曜日

壊される家

左は自分が撮った写真で、右は大辻清司「壊される家(9)」
先日、大辻清司についての講義を13時から19時までやる、というのを知って、大日方欣一さんの授業にもぐりこんだ。おおよそ年代順に、未発表の写真なども見れて面白い。「人間と物質」展の写真は今まで見たことがないものですごく良く、もっと見たかった。大日方さんは大辻清司のネガを保管しているらしく、おそらく投影している写真の多くはネガからスキャンしているもので、きれいに見えて良い。「この写真を気に入っていた」「この女の子は後にダーツの世界2位」「これはうどんをからからに乾かしたもの」など、有用無用にかかわらずめったに聞けないような話もたくさんあった。「無言歌」の撮影場所の話も興味深かった。大辻清司の写真では「壊される家」が気になっていて、いつかプリントを見てみたい。 大日方さんは榎倉康二についてもよく書いているので、また榎倉康二についての講義があればもぐりこみたい、ツイッターなどで告知して欲しいと思うも、それを学外者がリクエストするのは虫が良すぎるかな、と思い、話しかけず帰ってしまった。

フィルムの現像を10本まとめて出すと送料が無料になるので、ずっと貯めている。やっともうすぐ10本目を撮り終わるんだけど、一気にたくさん写真が来ても大変なので3〜5本くらいで現像に出したほうが良い気がする。

2015年11月25日水曜日

見た夢。狭い階段をあがった左手に扉があり、それが開いている。「倫理」とゴシック体で書かれていて、上のほうに輪のかたちの日焼け跡がある。

2015年11月15日日曜日

見た夢。卒業制作で映画を撮る。何も考えてなかったので、学校へ向かうバスの中で、バタバタと決めていく。遅刻していて乗客は自分しかいない。焦っているけど、バスの中は光がきれいに入って来ていて、考えることが面白く気分がいい。最初のシーン。それぞれ英単語の本を開き、揃って下校している高校生の男女。男のほうは隣が気になって、英単語が入っていかない。詰め込もうとしている英単語が空回り、隣の女の子に流れていくようでもある。そこだけ考えて、これであとは何とかなるだろう。容器と、容器を満たすこと。そこからはみ出し、溢れ出ること。別の容器を満たしたい気持ち、について。

容れ物に 淡々詰める 英単語 隣のあの娘に 流れ出て行く

2015年11月14日土曜日

2015年11月8日日曜日

将棋の加藤一二三九段が戦法のすずめ刺しについて、ふとあらためて考えてみると、「ひどい名称で、すずめに超迷惑」「これからはこの呼び方を使いません」とはっきり言っていた。確かに、と思うし、感動した。昔からあるから、とか、そういうもの、ただの名前だから、と片付けられそうなものにも、足を止め、疑問を持ち、良くないと思えばちゃんと否定をすること。「すずめも、よく言ってくれた、と私に感謝していると思う」と言っていて、きっとそうに違いない。

2015年11月5日木曜日

月の石



最近やってる唯一の創造的な行為といえば洗濯をすることで、安く買った古着を丁寧に手洗いするとやっと自分のものになる感じがあって良い。柔軟剤がわりにヘアリンスを溶かしたぬるま湯にくぐらせるの、大発明だな。ニットと髪が近づくような。
今、「ファウスト」を読んでいる。すごく面白い。

起き抜けに 思う人一人 二人かな
名前から 名前へ移る ねずみかな
ブラトップ 一段飛ばしで 肌に着き
(「岸辺の旅」を見て。実生活では見たことなし!)


2015年10月28日水曜日

眠りに色は無いけれど 水色かなと思う
呪い解く ために新たな 呪いを探す
蜘蛛の巣を 壊す数だけ 写真撮り
庭先で 会ったキツネに 聞いてみる 人間は好き? 答えは好き
そのキツネ 近くの川の ザリガニが好き
透明の 家の壁が 壊れてしまい ミルクづくりが できぬと泣く君
透明の 壁探しに 奮闘す
こちらに家を建てたなら 庭を共有できると思う
電車窓 見やる彼女の 早歩き 洗濯物を 干しに行くとこ
強化ガラスの網目を使い 弓を射る
ただのメモ と化す俳句を 否とせず

2015年10月12日月曜日

水草


田んぼの用水路に生えている水草が綺麗だった。こちらとは違う高い次元の存在のようにも思える。
貯水池で写真を撮っていると何かが動く音がして、横を向くと茶色い生き物が向こうへ走っていった。多分イタチだと思う。あまり見かけない動物を見られるとラッキーな気分になるな。すぐ後に天気雨が降って、車を停めているホームセンターへ向かった。250円に値下げされたアロエを買うかどうか悩む。買わなかった。

水の中 いられる特権 死人かな


2015年10月7日水曜日

近所の城山という小高い山を登ると、桜の木(多分)が幹から折れて隣に寄りかかっていて、その隣の桜の木も折れてしまっている。この前の台風のせいかな。なんとか持ちこたえてこのまま桜が咲いたら、花がつながるように、地面の近くにひろがって綺麗だろうな。

花の茎に登っている芋虫の緑色が鮮やかで、見つけた時に少し驚いた。綺麗とも気色悪いとも思う。どんな美しい人よりも、この芋虫のほうが花と親しいと思った。

2015年9月24日木曜日


ブニュエルの「この庭に死す」、すごく面白かった。リマスターで画が綺麗なのもあるけど、かっこいいカットが多い。ことあるごとに衝突する面々が、ジャングルを進むにつれてどんどんトライブ感が出てくるところや、石をこちらに向かって(カメラのほうに向かって)投げてくるシーンも良かった。

2015年9月9日水曜日

過剰な「すいません」を浴びて疲れる。
「すいません」で満ちている状態が普通になっていないか。それを普通と、何とも思っていない人の多さを恐ろしいと思う。常にそんな状態だからこそ、ひと度弱みを見つけると一斉に攻撃をし、自分が上に立ってやろうとするのでないか、と最近考えた。

耐震偽装事件の姉歯さんのことも思い出す。「姉歯」という名前のキャッチーさも相まって、テレビでの騒ぎ方、あるいはネタにされ方は非情だったと思う。根っこのもっと悪い部分は追求されず、枝の先の方ばかり攻撃しているように見えた。今の五輪エンブレムデザインの件も同じように感じる。その先に人の体が宙に放り出され、落下し、車の屋根を突き破って亡くなってしまうようなことが起こりうる。悲しい事件で忘れられず、時々思い出す。

2015年8月25日火曜日

橋の上は風が強い

台風で強風の中、写真を撮りに行った。風に煽られて横になっている木や草なんかを撮ってみたいと思う。歩いている人はほとんどいないし、曇っていて薄暗く雰囲気がある。道端に木の枝がばらばらになって落ちていて、湿った草木の香りがする。つぶれたスーパーの駐車場に倒れた街灯が置かれていたり、中学校前のバス停の印が倒れていたりした。河口近くの川まで来ると潮の香りがしてくる。体が濡れ、雨が降ってきたかな、と思うけど、強い風で細かく砕けた波のしぶきがそこら中に充満しているような感じ。潮でべとべとする。周りがどんどん煙ってきて、遮るものがないので風が強く当たり、橋の上ではよろめくぐらいだった。台風をレポートする現場の人を思い浮かべる。橋を渡りきって川沿いを歩く。河川敷にはゴミが落ちているものだけど、いつもは落ちていないような大きめのゴミが飛んできていて面白い。ゴミのコンポジション、とでもいうような並びはいつも気になって見る。以前から入ってみたいと思っていた、建物を取り壊し中の場所に侵入してみたけど、とてもわくわくした。建物が縦に切り取られたようになっていたり、つぶれてぐしゃっとしたかたちになっていたり。大きめの水たまりもいい感じ。フィルムが残り少なく、あまりたくさん撮れなくて残念だった。ただカメラを構えても風でぐらぐら動いてしまうし、暗いこともあってブレていそう(強制フラッシュを使ってみてもいいかな、と帰りに思った)。帰り道、犬の散歩をしているおばさんがいて、なんか良かった。犬も強い風の中で野生の勘を取り戻す、と考えるも、とことこ歩く小型犬にその様子はない。大きめの鳥の羽根(多分トンビの羽根)を拾って帰宅。取り壊し中の宿舎にはまた行きたいと思う。




2015年8月14日金曜日

畠山:自分一人でモヤモヤと考えを巡らしているだけじゃ不十分で、気持ちを文章に書いてみたり、人と話してみたりすることにはポジティブな部分がありますよね。最近はSNSなんかで大量の情報が本当にスピーディーに行き交っていますけど、ゆっくり喋ってみることで生まれる言葉や意味が絶対にあるんですよ。そうすることで窮屈な概念と概念の間に少し隙間が生じてきて、空気が流れ始める。そうやって頭の熱が少し取れるんです。

畠山直哉のゆっくり考えるススメ「写真家は過去と付き合う仕事」 http://www.cinra.net/interview/201508-hatakeyamanaoya




落ちている 鳥の羽根拾う いつからか 髪を撫でるよう 水の中

人目を避け 濡らしたティッシュで 膝を拭う
地面も植物もカチカチに凍っている 階段を降りる

20円の 端材を使って 箱作る

セーターの 穴に出入りするリスの 集める椎の実 裾からこぼれる

盆休み フィルムの現像 もう少し先

2015年8月8日土曜日

Bas Jan Ader, Selected Works


Fall 1 (Los Angeles 1970)
Fall II (Amsterdam 1970)
I'm Too Sad To Tell You (1971)
Broken Fall (Geometric) [West Kapelle - Holland]
Broken Fall (Organic) [Amsterdamse Bos - Holland]
Nightfall

Bas Jan Aderの「Broken Fall (Organic)」、木の枝にぶらさがり川へ落ちる映像作品。

2015年8月6日木曜日

8/6

妹、甥、姪、叔母、従姉妹で川遊びに行った。木々が茂っていて涼しく、水は冷たく気持ち良い。木登りをしていたら、ビーサンの鼻緒部分が取れ、バランスを崩し川へ落下。大きなケガはなかったけど、衰えを感じる。足を踏み外した瞬間、「落ちるのは恥ずかしい、回避したい」ということと「肩にかけている妹のカメラを濡らさないようにしないと」ということを強く思い、何とかしようとして何ともならなかったんだけど、その一瞬のうちに「何とかしようと思うこと」、それが普段とは違う速さで体を巡る感じが面白いし、懐かしかった。子供の頃のほうがこういったことをたくさん感覚していた気がする。それに合わせて体がしっかりと反応すると良いんだけど…でも木から落ちて死ぬのもまぬけでいいかもな、とも思う。予備のフィルムは持っていったのに、カメラ自体を忘れたので写真は無し。

今年も出身校が甲子園に出場しているので応援する。楽しみだな。

庭で見かけたハグロトンボ、綺麗だった。黒い羽、緑の体。ひらひらと優雅に飛ぶ姿は、トンボよりも蝶に近い。

2015年7月1日水曜日

関係ないモノどうし、あるいはお互いに孤独のうち

10+1 web siteの、「ストリートの終わりと始まり──空間論的転回と思弁的転回の間で」(http://10plus1.jp/monthly/2015/04/index01.php)がすごく面白かった。文章の最後のほう、以下引用する箇所では、Stomachache.のことを考えたり。

モノは人間から引きこもっており、モノどうしの関係からも引いている。

ストリートは空間であって、モノではない。しかし、人々だけではなく、無数のモノが住まっている場所siteである。そもそも空間spaceとは、わたしたちが認知、感覚できるモノ(sensual things)と、このモノにひそんでいる過剰な何か、まだわたしたちに接近することのできない、モノのなかのリアルなモノ(real things)との間の亀裂やずれのことを指すのではないだろうか? たしかにストリートは対象のかたち、並置の形式として経験されるけれど、つねにそこには汲みつくすことのできない何かが余剰としてひそんでいる。スペクタクル的な建造環境は文字どおり剰余価値の苗床でもあるが、そこにちりばめられたモノそのものに隠された広がりや豊かさ、あるいは感覚や認知の枠組みにおける欠如(絶対に十全にアクセスできない何かがあるということ)は、資本や数字に換算、還元できる要素以上/以下の、根元的なモノの次元の消息を伝えている。 


どんな街路も見えない網の目をひそませている。さしあたり、人はそれをネットワークと呼ぶだろう。これは情報メディアのそれだけではなく、人間以外の動植物や鉱物、果ては微生物、そしてもちろん人工的な建造物などをそれぞれエージェントや行為体とするネットワークにほかならない。ある場所にこだわり、ある空間を占拠すること、領土化することは、一方である網の目を浮かび上がらせるけれど、同時に別の網の目を見えない状態にとどめておくこともする。あるモノはそれが機能するなわばり(領土)でははっきり目に見えることがなく、逆に脱領土化され、なわばりから引きはがされ、いわば強制排除されることによってはじめて触知できるようになるかもしれない。ストリートではそういうわけのわからない出会いがつねに起こっている。
対象やモノに認知的に汲みつくしえない何かがあるとすれば、本来は互いに無関係なモノどうしの間に一時的なはかないつながりを紡ぐ都市の身ぶり、街/ストリートの息吹のような何かがある。それを穿ち、辿りながら、ときに可視化する試み、あるいはストリートの裏にあるモノの動きの見えなさを何とか迂回してでも浮き彫りにするような試みが街のなかには生起する。ネットワークは資本や権力によって課せられるimposedだけではなくて、街のなかでは無数の編みこみが重合superposedされているのである。そこではストリートの知性はモノへの拘泥によって、自らが帰属し、漂流する都市のなかのはかないつながりを分節化しようとする。互いに全く基本的に関係ないモノどうし、あるいはお互いに孤独のうちにあり、どちらかといえば背きあっている者(モノ)どうしが、あるかりそめの一時的な試みにおいて出会う、関係しあうこと、これは存在論的な課題であり、同時に投資=投機的speculativeなシステムのなかでしなやかに、したたかに生きのびる思弁speculationの営みになっているかもしれない。

ストリートの文化政治を考えることは、ストリート系ファッションの盛衰を語ることでも、パンクやDiYっぽい生き方を薦めることでもないし、金持ちやセレブの価値観に対抗して貧乏人の文化を祝福することでもない。もっと端的にすべきこと、モノに即してできることが、物書きや知識人にはあるはずだ。たとえ、それが表向き、ストリートからひきこもる身ぶりにつながったとしても......。ストリートの政治から戦闘的なカラ元気や行動様式を抜いていくこと、ミリタントな姿勢を放棄することによって得られる、しなやかな強さがあるのではないか?”







2015年6月12日金曜日

雑草の生い出づように咳をする

2015年6月7日日曜日

黄色

頼んでいた写真のプリントが届く。四切、43枚。全体的に色が黄色ぽく、なぜ色見本を付けなかったのか、とすごく後悔している…大金が無駄になったのではなかろうか。がっかりしている。終わった。

ポーラ美術館で見たセザンヌ展、すごく良かった。国立西洋美術館が少し前に収蔵したも展示されていて、それが一番好みだった。見ていてドキドキする。ゴッホの「草むら」という、何でもない草だけを描いた絵も良かった。
昔のちびまる子ちゃん、ドリフが面白く、心に残る。あと、ミュージックステーションに出ていたチャットモンチーがかっこよかった。本気度高い。

2015年5月12日火曜日

遠い人


遠い人 鏡の向こう 棒の先 歩き回りて 斜線にかける


2015年5月9日土曜日

back to backを聞くために小沢健二のシングルCDを購入。いきなりCDを収めるところの爪が折れてショック。流星ビバップの「やがて種を吐き出すような固い固い心のカタマリ」という歌詞に、性的な意味があると初めて気づいた。

2015年5月8日金曜日

セレクト疲れ



数は多くできないけど、時々俳句を考えている。俳句ができた日も記録して覚えておいたほうがいい気がするな。失敗した。

ろっ骨に 棲みつく鼠 かじる骨
緑色の携帯電話 梅の花
横顔が 木々に隠れぬ 白い布
画面から こぼれるくらいの花束を グレーの車の中でまどろむ
橋脚に 名前をつけても きりは無し
若竹の薄皮剥きて手を濡らす いつか枝葉になっていたところ
姫様を手に入れんとすお金持ち 竹を眺むる 我のせんこと

2015年4月25日土曜日

差分








憂鬱で落ち込んでいる時には、伊集院光のラジオのインチキストーンのコーナーを聞きながら寝ている(Youtubeにアップされている)。何度聞いても面白い。

2015年4月5日日曜日

梅林公園

昨日、幼稚園か小学校低学年のころに遠足で行ったほうへ向かって散歩した。上半分が取り壊され、建物ががれきを載せた格好になっている競艇選手の宿舎を、塀越しや防音シートの隙間からのぞく。中に侵入してみたい。

途中で「梅林公園」という標識があり階段の方を指していて、そちらへ向かうことにする。階段にハエがたくさんたかっていて途中走って駆け上るも、かえってハエが身体に当たって逆効果のような気もした。小高い山にあるその公園は、遊具があるような公園ではなく、別段何もない場所だった。黄色い花が一面に咲いていて桜の木が少し植わっているも、放ったらかしの鬱蒼とした雰囲気もあり、憩いの場所にはならなそう。でも個人的にはちょっと良い場所だと思った。桜の木が無いところでも、風が吹くと花がひらひら落ちてくる。一度他の木に引っかかったものが落ちてきているようだった。桜の花が、他の植物の上に模様のように載っているのも面白かった。うろうろしながら写真を撮っていると、道のない斜面を人が登ってきて驚いた。下を向いて何かを探しているようだった。前日は雨だったので筍だろうか。そのおじさんを気づかれないように遠くから写真に撮り、公園を後にした。

帰りに、枯れた植物が歩道の真ん中に落ちていて拾う。安井仲治の、花を静物のように撮った写真が良く、それを思い出したので。松の葉を拾い、破れた競艇の舟券も拾う。道路脇の植栽の上に、ジョギングする人がかぶるようなアディダスのピンク色の帽子が落ちていて、それも拾って持って帰る。枯れた植物、松の葉、舟券、ピンク色の帽子という謎の装備で、すれ違う人から見るときっと変だろうと思う。

ピンク色の帽子はきれいに洗ったけど、使うことは無さそう。夜、曇っていて皆既月食は見られなかった。

2015年4月2日木曜日

1

電車の中 外の景色の光が溜まっている
俳句を組み立てる間に 一駅二駅 通っていた高校の最寄り駅 ゴルフの打ちっ放しに励む人たちは もう何年もそこにいる ちょうど今日のようなうららかな晴れの日に 「行ってきます」とジャージ姿で出かけたきり 延々とボールを打ち続けている

四月二日

二日続けてツバメ(去年巣立ったやつかも)がガラスにぶつかってきて驚く。痛くないのかな。たまに一人の時に、通路とか階段でブロック崩しの球みたいに壁にぶつかり、はね返りしながら進むことがあるけど、ああいう感じなのだろうか。

最近読んだ「小説 となりのトトロ」が面白かった。宮崎駿の書いたものではないんだけど、少し加えられている部分も良かった。勘太が良い。

昨日は風が強かった。四月二日、春になった。三日連続で偏頭痛がする。

2015年2月24日火曜日

生まれて初めて絵画を購入した。気になっていた作家のものなので、とてもうれしい。実物を見ずに買ったので、どうかな、と思っていたけど、すごく良い絵だった。例えば、その作家の絵が美術館やギャラリーにいくつかかけてあっても、その中でも気に入るだろうと思う。お金ないのに、作品を集めるのは少しくせになるかもしれない…作品によく合う額を作る技術が必要。

Swiss InstituteでやっていたDavid Weissの展示がすごく良さそうだった。Peter Fischliと組む前の1968年から1979の作品。 http://www.swissinstitute.net/exhibition/david-weiss-works-1968-1979/

今度David ZwirnerであるBlinky Palermoの展示も気になる。レアな作品が展示されるみたい。カタログが出たら欲しい。 http://www.davidzwirner.com/exhibition/palermo-works-1973-1976/



2015年2月12日木曜日

変身

「すべての仕事は売春である」とJ・L・Gも言っていますが、私もそう思います。然り。
それ、をそうと思っている人、知らずにしている人、知らんぷりしている人、その他、などなどがいますが繰り返します。
「すべての仕事は売春である」と。
そしてすべての仕事は愛でもあります。愛。愛ね。


岡崎京子「pink」(1989年9月マガジンハウス刊)のあとがきより


1月3日、夕方、門司港発のフェリーに乗って大阪へ。時間は12時間ほどかかる。夜行バスよりはずいぶん楽だし、値段は7000円くらい。慣れるとそうでもないのかもしれないけど、楽しさもある。帰りはLCCで3000円くらいだったけど、年始の値段を比べるとフェリーのほうが安かった。

大阪行きの目的は、女流棋士の新春イベントに参加するため。将棋は、よくわかっていないながらもまず純粋に駒が動くことが面白く、ここ2年ほどよく見ている。棋士の所作や、盤面を上から写した映像にぬっ、と手が出てくるところも面白い。向かい合い進む駒の動きには、地上から天井から植物が伸び絡まっていくようなイメージもある。

マイナビ女子オープンの中継ブログに山根ことみさんの写真が載っていて、その写真にとても惹かれた。首の傾げや、斜めに落ちた肩の線、とりわけ、逆手にした左手を軸に膝や床に体重を預けている姿、ひねった身体が気になる。以前、のぶえちゃんの展示について書いたことや、その時に少し理解が進んだように思うリヒターの『ベティ』が参照されて思い浮かんだ。わざわざ大阪まで、とも思っていたんだけど、これは一度実際に将棋を指すところを見てみたい、と思い遠路はるばる大阪行きを決めた。(…と、こんなことを書いておきながらも、山根さんがかわいい、というのもある。ファンになっている。)http://hellotothedistance.tumblr.com/post/103205207523

チケット代は5000円。それに加えプラス2000円で対局を近くで見られ、記念の写真を撮ってもらえるというスポンサー席もとる。棋士のサイン色紙や扇子が販売されておリ、山根さんの「自琢」と揮毫された色紙を購入。3000円。アイドルのファンもこのようなんだろうな、と思う。

イベント中は自由に写真を撮ってもよかったので、参加者は皆おおいに撮っていた。せっかくだから、と自分も撮っていたんだけど、本当にアイドルの撮影会のようで、女性を「消費」しているような、何か少しもやもやした気分になる。その時に思い起こしたのが、ゴダールの「すべての仕事は売春である」という言葉で、とはいってもこういった売春の仕方(身の切り方、仕事の仕方)は女流棋士のものではないよな、と思う。女流棋士と一緒にチェキを撮ってもらえる、一枚1000円というのもあった。たくさんの人が一人で何枚も撮ってもらっていて、すごい。それは外から眺めるだけに。撮影する女流棋士もすごく手馴れていて、たくましいとも思ったし、こういったことでイベントが成り立っているんだろうけど、憧れの人たちにはしてほしくないような気もした。

対局は20秒将棋。熱戦もあり、どの対局も面白かった。早指し戦なので、目当ての深く考慮している姿は見られなかったのが少し残念。晴れ着姿なので身体のラインも隠されている感じ。ただ、袴の脇のスリット部分(名称がわからない)から着物の色がのぞくところがとてもきれいだった。秒読みが切れる寸前の逡巡、慌てる様子も印象に残っている。

対局のほか、トークや女流棋士との指し初めなど盛りだくさんで、とても良い一日になりました。女流棋士の方たちは本当に華やかできれいだった。こういう日くらいは自分もきれいな格好をしたいな、と思う。帰りに女流棋士カレンダーと棋譜のコピー、自分のような遠方から来た人にはドライフルーツの詰め合わせをお土産にいただいた。心遣いも含め、すごくうれしかった。

最後に、冒頭の引用の続きを。

“愛”は通常語られているほどぬくぬくと生あたたかいものではありません。多分。
それは手ごわく手ひどく恐ろしい残酷な怪物のようなものです。そして“資本主義”も。
でもそんなものを泳げない子供がプールに脅えるように脅えるのはカッコ悪いな。
何も恐れずざぶんとダイビングすれば、アラ不思議、ちゃんと泳げるじゃない? 「バタ足金魚」のカオル君みたくメチャメチャなフォームでも。

現在の東京では「普通に」幸福に暮らすことの困難さを誰もがかかえています。
でも私は「幸福」を恐れません。
だって私は根っからの東京ガール、ですもん。



自分には抵抗もある。でもちゃんと意識を持って飛び込めれば、そちらのほうがロマンチックだろうな。






2015年1月23日金曜日

やさしい女

ロベール・ブレッソンの『やさしい女』がデジタルリマスターで4月に上映される。本当に楽しみ。ブレッソンの映画はなるべく映画館で観たい。
http://culture.loadshow.jp/topics/yasashiionna


『たぶん悪魔が』もいつか必ず観たい。

2015年1月14日水曜日

マティス

スーパーで古本屋が開かれていて、店舗は無いけど九州をまわっているのだそう。マティスの展覧会図録を2冊購入すると、「これらが好きだったら、この辺も見てみてください」と、見飛ばしていたずっしり大きい画集を薦められた。その中の1冊がセザンヌとスーラのもので気になる。初めて見たセザンヌの水彩画が良い。「すこし値引きしますよ」と言われたこともあり、購入。「別に売ろうと思って薦めたんじゃないよ」という言葉を添えて、ビニール袋に入れてくれた。雰囲気がよく、良い買い物となりました。

2015年1月12日月曜日

広々とした公園のような場所、そろそろ相手がやってきてケンカが始まろうとしている。5対5くらい。小走りで向かっていると、若い桜の木が、枝を柳のようにゆったり軟らかく揺らしているのが目に入り、写真を撮ろうと荷物のところへカメラを取りに戻ることにする。振り返り走り出すと、向こうに青々とした山々が迫ってくるように連なっていて、こちらも素晴らしい景色。色が大判カメラで撮った写真のような色乗りで、ずっと近づくと滲み朧げになるような感じ。岩の上で、上を向いて眠っている人がいる。

週末から風邪でダウンしている。龍角散ののど飴が良い。
無印良品のフリースソックス、ぶか、としているので部屋で履く用にと思っていたけど、靴を履いて外でも使える。無印のフリースは気持ち良い。

年始に大阪へ行った。行きはフェリーで雑魚寝の部屋。就寝時、じっと列に並んで運ばれていくことを考えると、コンテナの中の荷物になった気分だった。エンジン?の振動で自分がふるえる音は、それぞれ自分にしか聞こえない。弦楽器になった気分にもなる。ほとんど眠れなかった。