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2012年7月15日日曜日

シルビーナ・オカンポ、鏡の前のコルネリアを読んだ。自死を望むコルネリアが鏡のなかの自分、女の子の幽霊、泥棒、建築を学ぶ学生と順に話す。ハーマン・メルヴィルのピエールを読み出す。

ノート
・一階、中二階、二階。
・壁を建て、窓をつくり、枕を置く。Y字の木の片方の枝葉、花が覆い被さる。

2011年11月4日金曜日

コピュレイション・アンド・ミラーズ・アー・アボミナブル

廊下の遠い奥から、鏡がわたしたちの様子をうかがっていた。(深夜には避けられない発見だが)わたしたちは鏡には妖怪めいたものがあることに気づいた。そしてビオイ=カサレスが、鏡と交合は人間の数を増殖するがゆえにいまわしい、といったというウクバールの異端の教祖の一人の言葉を思いだした。
…
ビオイが思いだしていったのは、交合と鏡はいまわしい、だった。『百科事典』の文章ではこうである。それらグノーシス派に属するものにとっては、可視の宇宙は、幻想か、(より正確には)誤謬である。鏡と父性はいまわしい、宇宙を増殖し、拡散させるからである。

ボルヘス - トレーン、ウクバール、オルビス・テルティウス

2011年10月13日木曜日

鏡としての月

一九四二年七月、ペドロ・エンリーケス・ウレニャはサントスの図書館で、バートンの手稿を発見したが、そこには、東方においてイスカンダル・ス・アル=カルナインすなわちマケドニアの双角のアレクサンドロス大王のものとされている鏡のことが書かれてあった。その鏡には全世界が映っていた。バートンはほかにも同じようなからくりの鏡—カイ・ホスルーの七重の盃、タリク・ベンセヤドがある塔で発見した鏡(『千夜一夜物語』第二七二夜)、サモサータのルキアノスが月の中に見ることができたという鏡(『ほんとうの話』第一部、第二十六章)、カペルラの『サテュリコン』の第一書でユピテルのものとされている鏡のような槍、《まるくくぼんだガラスの世界にも似た》マーリンの宇宙鏡(『フェアリー・クイーン』第三巻第二章第二十九行)—のことを述べて次のような奇妙な言葉をつけくわえている。「しかしながら、これらの鏡は(実在しないという欠点のみならず)単なる光学器械でしかないということだ。…」

ボルヘス - アレフ

2011年9月19日月曜日

鏡派

彼らは、…われわれの見るものすべて誤謬であることを論証するためにコリント前書第十三章第十二節(「今われらは鏡をもて見るごとく見るところ朧なり」)を引きあいに出した。

ボルヘス - 神学者たち

2011年8月19日金曜日

個人的抽象

ラテンアメリカ文学のアンソロジーを読了。
お目当てのフェリスベルト・エルナンデス"水に浮かんだ家"と、アドルフォ・ビオイ=カサーレス"パウリーナの思い出に"が素晴らしく良かった。

"パウリーナの思い出に"より
何年ものあいだ、ぼくはその夕方のことを思い出した。その後の孤独な日々よりも悲しい別離のときのほうが、パウリーナとともに過ごせたせいで、まだしも慰めが見いだせたので、あれこれ思い返しては、何度もそのときを生きたのだった。

あとがきより
「ビオイ=カサーレスのテーマはコスミックなものではなく、形而上学的なものと言えよう。つまり、肉体というのは想像上のものでしかなく、われわれはその幻影の圧政下に生きているのである。そうした中で、愛は特権的な認識であり、愛を通してわれわれは世界の現実だけでなく、自分自身の現実をも全体的、かつ明晰に把握することができるのである。つまるところわれわれは影を追い求めているにすぎないのだが、そのわれわれ自身もまたじつは影でしかないのである」(O・パス)

2011年7月5日火曜日

ネズヴァルは、女性には霊体になる力とそれを実行に移す手段が備わっているので、可能ならそれを活用する、つまりできることなら肉体を輝かしい形で分離、分解すること、そこから女性の新しい性的な魅力が引き出されるはずだと熱っぽく語った。そのあと、女性は解体可能な存在なのだ、と言って話を締めくくった。

- エンリーケ・ビラ=マタス ポータブル文学小史

(女性について、美術手帖、イザゲンツケンの評論とあわせて考える)
メモをなくさないように。