2014年11月19日水曜日

また明日

10月18日、のぶえちゃんの展示を見に名古屋へ。
道中読んでいた本に、ロバート・スミッソンの文章(キュレーターのハラルド・ゼーマンを批判したもの)が載っていて、小屋で展示をしているのぶえちゃんにも親近感のわくものかもと思い、コピーしようと思うも忘れてしまう。芸大通駅を降りたところでコンビニは見当たらず、仕方なくそのまま小屋に向かう。チラシの地図どおりに行けばどうやったって間違えなさそうなものの、迷ってしまう。この道じゃないかも…とあせりながらも、写真を撮りながらならいいか、と開き直り、長い道を歩く。向こうの方に白と黒の毛並みの猫がいて、この猫についていったから迷った、という物語を捏造する。おそらく通行不可のところを通ったりしながら、地図とは反対の道から小屋へ到着。看板を見た時はホッとした。
作品はとても良く、態度とか試行錯誤が結実しているように感じた。陶芸の作品は仕上がりがコントロールできないぶん、制作中やもっと言えば普段の生活のそういった部分が濃く出ている気がする。以下は連想したことを書いていきます。引用多め。
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小屋の中で見つけたというヘビの抜け殻を、落ちていた場所からそのまま持ち上げたところの壁に下げていて、一つ作品を挟んだ隣にはぐるぐるに巻いた紐を下げていた。少しEva Hesseや高松次郎を思い出すも、後からロバート・スミッソンのスパイラル・ジェティにつながるように感じる。スパイラル・ジェティは、ユタ州のソルトレイクに建造した反時計回り・螺旋状の作品で、それは反転させたバベルの塔である、と以前読んだことがある。スミッソンが浮かんでは消えるバベルの塔を水の中に向けて建てたように、のぶえちゃんは眠りや草木、風を描いているのかもしれない。(富士栄厚「ロバート・スミッソンの《スパイラルジェティ》をめぐる問題:バベルの塔の倒置」

・螺旋のメタモルフォーゼ、円を不完全にすること
・「植物の成長時における上昇と螺旋の力の拮抗関係」(ゲーテ)
・ゲーテにとってメタモルフォーゼとは、「人を形のないところへ連れて行き、知識を打ち砕き、それを消し去ってしまう」遠心力と、それに拮抗してあくまでも同一性に固執しようという求心力との相互作用の結果である

論文中のスミッソンにも影響を与えたゲーテの引用が面白く、ここで大島弓子を思い出す。大島弓子の漫画を読んでいると、草木、花、風、木漏れ日、眠り…などと共にふわふわしたやわらかな円(不完全な円?)が描かれる。それらの天と地の間に吹く、あるいは天へ向かう、またあるいは天から差し伸べられる力(遠心力)と、線や言葉を用いて表象再現するという欲求(求心力)との拮抗。葛藤し、バラバラになってしまいそうだけれど、大島弓子は本気度高く挑んでいたと思う。「芸術は目に見えるものを表象再現することではなく、見えるようにするものである」(パウル・クレー「想像についての信条告白」)。見えるものを、見えるようにすること。世界の輝き(Schine)、「神の光に満たされている自然」…立ち会うその度ごとに多様に豊かさを感じさせる自然にアクセスする道を示すこと。(大島弓子の漫画には性の反転や、人格が分裂する話が多い。加えて、星を眺めることの頻出、その切り返しとしての宇宙、天からの(全てを等しいものとする)視点、「全て緑になる日まで」。大島弓子の漫画とヴォルフガング・ティルマンスの写真はとても親しいものだと感じている。「View From Avobe」)

のぶえちゃんの作品にも同じことが言えて、特に今回の展示の陶芸の作品と絵本には色濃く出ているように思う。眠っている人の陶芸の作品は胸あたりから下が無く、山のように見える。または水に浸かっているようでもあり、それはしばしば描かれるおばけや宙に浮く人と近しいかもしれない。多様な曲線(髪から肩、腕などのかたちをつくる線。髪の毛や閉じられた目の線。釉薬の濃淡、光りかたの差異。何よりもそれらの土台である指の跡、くぼみ)が織りなされ、見るごとにまだ見続けられる。いつまでたっても捉えられない、定まることがない、というほうが正確かもしれない。木漏れ日のもとでは常に新鮮に豊かさを感じるけれど、それに比べられる経験だと思う。そのまま「眠り」に通じて行ってしまう。揺れながら、遠心力に乗って形のないところへ。落ち葉の上に軟着陸する。

次にハル・フォスター「第一ポップ時代」、ゲルハルト・リヒターに関する文章を参照。

・「現実と私自身の関係(…)は、不精確性、不確実性、一時性、不完全性といったもの(…)に多くかかわっています」(リヒター)
・「なにかを示すこと、そして同時に、まだ示さないこと〔…〕おそらくべつの、第三のものを示すために」(リヒター)
・ミシェル・フーコーは、「肯定」と「類似」が表象において特権的な述語であるとする。イメージが指示対象に類似することをつうじて、その対象が現実に存在しているということが肯定されるわけである。カンディンスキーはその抽象のなかで現実の肯定を現実の類似から解き放ち、類似はおおむね放棄される。にもかかわらず現実はいまや類似の彼方、もうひとつ別の(精神的ないしプラトン的とみなされる)領域に位置づけられ、依然として肯定される(…)。マグリッドはそのシミュレーションのなかで、もっとラディカルな換位を行なう。すなわち類似を肯定から解き放つのである。類似は維持されるが現実のほうはいっさい肯定されず、指示対象、つまりその実在性は雲散霧消する。フーコーは書く。「マグリッドは古い表象空間が君臨するにまかせるが、それも表面だけのこと、(…)その下には何もありはしない」。(…)抽象が、類似を消去するなかで表象を保存するのに対し、(マグリッドの)シュミラークルは表象の土台を取り去り、言ってみればその下から現実を引きずり出すのである。フーコーはその試論をしめくくるにあたってウォーホールのスープ缶を引きあいに出す。ウォーホールマグリッドのさらにうわてを行っているのだという含みである。リヒターも同じ結論に至ったようだ。彼はカンディンスキー、マグリッド、ウォーホールの三者に、同時に修正を加える。というのも、カンディンスキーとちがってリヒターの抽象は超越的現実を肯定したりはしないし、彼の表象はマグリッドやウォーホールとちがって単なるシュミラークルではない――現実の様相(ルビ:あらわれ)を、反省的思考を加えつつおさらいしてみせるのである

絵本については、うろ覚えと読後感で話を歪曲している可能性があるけど、「今日は何をしよう」と始まり、その足で出かけ、さまざまなことをする/想像する話だったと思う。その過ごし方は並列に扱われていて、最後には家のベッドに戻ってくる。すこし遠くへ出かけていった一日でもあり、何もしない一日でもあるような、不思議で、普通の一日。心地良いような、疲れているような、眠いような。絵本について、「もっと抽象的なものにしようと思っていたけど、こうなった」と言っていた。アルコール転写(多分)を使って色とテキストを霞むようにのせた箇所に少し抽象の趣きがあるけれど、その霞んだ色面と文字はむしろリヒターのフォトペインティングに近く、同等の効果を生んでいるように感じる。「輪郭をぼかすのは、すべてを均等にするため、すべてを等しく重要で、あるいは等しく重要でなくすためである。(…)すべての部分が互いに浸透しあうためにぼかす。また、多すぎる無用な情報を拭い消すためともいえる」とリヒターは自身の絵について話す。絵本のページのそれぞれも等しいものとなり、浸透しあい、テキストもまた絵となり…陶芸の作品と同じく「自然」に通じていくようである。「現実の様相(あらわれ)をおさらいしてみせる」ような態度を、すんなりと自然にのぶえちゃんはとっていると思う。

けいちゃんが作ったというラッパの作品は、しぼんだ花弁のようにも見える。その隣の眠りの中、螺旋を描いて。

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